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横浜地方裁判所 平成6年(ワ)3200号 判決 1998年2月25日

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

第一  請求

被告は原告に対し、金三八七万六八七一円及びこれに対する平成六年一月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、建物賃借人であった原告が、賃貸人(建物所有者)である原告に対し、右建物の臭気により居住できなくなったとして、貸主の債務不履行による損害賠償及び有益費の償還請求をしている事案である(付帯請求は、支払催告期限経過後の遅延損害金)。

一  争いのない事実等

1  原告は、平成五年六月一一日、被告が同年四月一五日新築した別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を次の条件で賃借し、同日引渡を受けた(以下「本件賃貸借」という。)。原告は、本件建物新築後初めての賃借人であった。

賃料 月額二一万円

期間 右契約日から二年間

敷金・礼金 各二か月分

2  原告は、本件建物においてピアノ教師を営むつもりであり、入居準備のため、次の設備を行った。

(一) 一、二階の窓にカーテンを、窓の内部にブラインドを設置した。

(二) グランドピアノ用のピアノ台を一階の居間に新設して設置した。

(三) 植木一〇数本を植栽した。

(四) クーラー、テレビアンテナを設置し、電気配線工事を行った。

(五) 物置二個を新設した。

(六) 電話線等の配線工事をした。

3  原告は、右準備の後、同月二八日本件建物に入居して独居生活を始めた。

4  ところが、原告は、本件建物内に異常な刺激臭があるとして、数日後本件賃貸借の仲介業者や本件建物の建築業者、被告らに右事実を訴えた。また、原告は、藤沢市公害課へも同様の訴えをして調査を求めた。

その結果、本件建物の電気工事を担当した梶谷電気が原告に対して空気清浄器を二台無償貸与し、藤沢市公害課の指導により更に三台が設置された。

5  しかし、原告はその後間もなく本件建物を退去し、最終的に同年九月三〇日をもって本件賃貸借を解除する旨被告に通知し、本件建物を明け渡した。

そして、原告は被告に対し、同年一二月二六日到達の書面により、右異臭による損害を二〇日以内に支払うよう催告した。

二  争点

1  本件建物における刺激臭の発生及びその程度

(原告)

本件建物には従前から異常な刺激臭が発生し、室内に充満しており、本件建物内において長時間過ごすことは不可能であった。前記空気清浄器をフル稼働させれば改善されたが、これを停めると再び刺激臭が発生して気分が悪くなり、到底本件建物内で健康な生活を維持することは不可能であった。

右刺激臭は、建築に使用された建材やその接着剤に含まれるホルムアルデヒドが空気中に発散したものと推定される。

(被告)

新築建物として若干接着剤等の臭気があったとしても、生活に耐えられないというほどのものでは到底なかった。

2  原告の健康被害の発生及び刺激臭との因果関係

(原告)

原告は、右刺激臭(有毒化学物質)により頭痛がして気分が悪くなり、これが原因でアレルギー性上気道炎を発病するなど、健康被害を受けた。

(被告)

原告は本件建物入居以前から、アレルギー性疾患の患者であった。

3  被告の過失の有無

(被告)

本件建物建築に使用した建設資材及びその工事内容は標準的なものであり、仮に原告が本件建物から発生する化学物質により被害を受けたとしても、建築の専門家ではない被告において、右損害を回避することは不可能であった。

また、被告は、原告から異常な刺激臭を指摘されるや直ちにその確認のために本件建物への立入りを求めたが、原告においてこれを拒否したものであり、被告は賃貸人として求められる注意義務は尽くしたものである。

むしろ、本件における被害の責任は、施工業者である株式会社イソダや建築資材等のメーカー、販売店が負うべきものである。

(原告)

被告は、原告から異常な刺激臭についての指摘を受けた際に適切な回避策を採らなかったものである。また、原告との間においては、株式会社イソダは被告の履行補助者であり、イソダの行為は被告の行為と同視すべきである。

4  原告の損害

(原告)

(一) 原告は、本件賃貸借のため以下の費用を支出したが、これを解除したことにより、同額の損害を受けた。

〇本件賃貸借契約に際し支出した費用

賃料 七七万円

礼金 四二万円

仲介料 二一万六三〇〇円

(計)一四〇万六三〇〇円

〇家財保険料 九一二〇円

〇ピアノ補修台工事費 一四万九三五〇円

〇家具等運搬費 一九万三三八七円

〇電気料金 三万六五一一円

〇車庫証明代 一万六一〇〇円

〇来客用駐車場賃借料 二万四〇〇〇円

〇カーテンリフォーム代 一七万五一〇〇円

〇後記5(有益費の発生)において主張する各支出

(計) 七六万二七九三円

(二) 原告の健康被害による損害

〇医療費 一万四二一〇円

〇慰籍料 一〇〇万円

5  有益費の発生の有無

(原告)

原告は、本件賃貸借に関して支出した次の費用につき、有益費として償還請求をする。

〇電気関係設備工事費 三三万円

〇植木植栽費用(手間賃共) 七万三九〇〇円

〇内装設備工事費 三五万八八九三円

(計)七六万二七九三円

(被告)

電気配線は原告が勝手にしたものであり、カーテンや植木は原告がいらないと判断して残置したものである。これらによって本件建物の価値が増大したとはいえない。

6  過失相殺の有無

(被告)

仮に、被告に責任があるとしても、以下のとおり、原告にも九割の過失がある。

すなわち、原告は従前からアレルギー性の疾患を慢性的に発生させうる体質であり、化学物質等により被害が発生しないよう自ら注意すべき義務があるというべきであるが、平成五年五月一五日の下見の際にも異常な刺激臭に気づいたと思われるのに安易に本件建物への入居を決定し、同年六月四日のクーラー設置の際や同月一一日の引渡しの際、更に同月二八日の入居後も適切に換気するなどの防止策を怠っていた。これら原告の行為が被害の発生・拡大に多大に影響したものである。

(原告)

原告がアレルギー性鼻炎等に罹患したからといって、直ちにアレルギー性の疾患を慢性的に発生させうる体質であるとはいえない。

原告は、当初化学物質に過敏に反応する体質であるとは知らず、また、被害の発生の予見し得なかったものであるから、原告の行動には過失はない。

第三  争点に対する判断

一  争点1(本件建物における刺激臭の発生)及び2(原告の健康被害の発生及び刺激臭との因果関係)について

1  《証拠略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 化学物質過敏症は、微量な化学物質の曝露により非常に不愉快な症状が引き起こされるもので、その患者には視覚系の機能障害が多く見られる。ただし、現時点(証言時点は平成九年一〇月二日)では未だ学会においても世界的にみて完全に認知されているとは言い難い状況にある。

(二) 化学物質の曝露を受けてから相当期間経過後においても視覚障害の症状を示す患者もあり、治療によって軽快しても、半永久的に一部の症状が残る場合もある。

化学物質過敏症ないし視覚機能障害を来す患者の約半数は新築家屋に起因している。

(三) 化学物質過敏症は、同じような状況にあっても人によって発症する場合としない場合がある。特にアレルギー体質の場合、発症しやすい傾向がある。

(四) 宮田証人が原告を初診したのは平成八年三月であり、症状としては、目がちかちかするなどの自律神経失調症のような症状及びアレルギー症状が見られ、明らかに視覚系神経機能の障害が認められた。当時原告は、新築の家屋に住んで右のような症状が出てきたと訴えていた。

(五) 右診断時の原告の症状としては、自律神経失調、視中枢異常、眼球運動中枢異常などであり、非常に広範囲に中枢神経系の異常が見られた。

2  前記認定事実は、本件建物入居後異常な刺激臭により頭痛その他健康上の障害が出たとする原告の供述に沿うものであり、本件建物入居当時の刺激臭とそれによる身体症状に関する原告供述は信用できるものである。また、原告が本件建物退去後まもなく受診した医師の診断書、カルテに記載された症状も、宮田供述によれば、化学物質過敏症のそれに符合するものであることが認められ、これら証拠関係からすれば、原告の右症状は宮田供述にいう化学物質過敏症によるものと認定することができる。

3  また、本件建物につきホルムアルデヒド等の新建材特有の臭気が発生していたことは原告本人のほか、証人梶谷、同石坂の供述などからこれを認めることができ、原告が本件建物に入居し、その後間もなく退去した時期と原告の前記症状が発現した時期とが接着していること、全証拠によるも他に原告の化学物質過敏症を引き起こす原因となるような事実関係が見当たらないことなどに加え、前記宮田証人や建築材料と健康被害に関する研究家である相根証人の各所見なども考慮すれば、原告が主張する健康上の障害は本件建物の新建材や接着剤などから発生する化学物質によるものであると認定するのが相当である。

二  争点3(被告の過失)について

1  賃貸借の貸主は、目的物を借主の通常の使用に適する状態で提供する契約上の義務を負うところ、本件賃貸借は居住を目的とするものであるから、貸主たる被告は原告に対し、本件建物を健康上良好な居住環境において提供すべき義務を負担していたというべきである。しかるに、本件においては、前記認定のとおり、本件建物から発する化学物質により、借主である原告は本件建物に居住することができず、結局退去することになったのであるから、これは貸主たる被告の右債務の不履行(不完全履行)であり、被告としては、これにつき過失がなかったことを立証しない限り損害賠償の義務を免れないものである。

2  そこで、本件における被告の過失の有無について判断するに、前記認定のとおり、原告の健康被害は化学物質過敏症によるものと認められるから、結局、本件賃貸借契約締結当時、被告に右化学物質過敏症の発症を予見し、これを回避すべき具体的義務があったか否かが問題となる。

これについては、

(一) 前記のとおり、化学物質過敏症がごく最近において注目されるようになったものであり、未だ学会においてすら完全に認知されているとは言い難い状況にあること、したがって、本件建物建築当時の平成五年六月ころの時点において、一般の住宅建築の際、その施主ないし一般の施工業者が化学物質過敏症の発症の可能性を現実に予見することは不可能ないし著しく困難であったと認められること

(二) 本件建物に使用された新建材等は一般的なものであり、特に特殊な材料は使用されていなかったと認められること

(三) 化学物質過敏症は一旦発症すれば極めて微量の化学物質でも反応するものであり、そうすると、その発症を完全に抑えるためには化学物質を含む新建材等をほとんどないし全く使用せずに建物を建築するほかないことになるが、一般の賃貸アパート等においてそのような方法を採ることは経済的見地からも極めて困難であり、現実的ではなかったと考えられること

(四) 被告ないし施工業者である株式会社イソダ等は、原告から本件建物の臭気について指摘を受けた際、換気に注意するよう指示したり、空気清浄機を設置するなど一般的な対応はしていること

(五) 前記のとおり、化学物質過敏症の発症は各人の体質等にも関係し、必ずしも全ての人が同一の環境において必然的に発症する性質のものではないことなどの事実が認められる。これら事実関係からすれば、本件建物建築当時、被告(ないしその受注業者たる株式会社イソダ等)が化学物質過敏症の発症を予見し、これに万全の対応をすることは現実には期待不可能であったと認められ、この点につき被告には過失はなかったというべきである。

3  原告は、原告が異様な臭気の発生について指摘した際、被告が採るべき具体的な結果回避措置を怠った点に過失(結果回避義務違反)があると主張するが、当時化学物質過敏症の予見が不可能であった以上、被告に要求される回避措置としては前記2の(四)で認定した程度のもので一応足りたというべきであり、被告に回避義務違反があったとはいえない(また、化学物質過敏症が前記のような性質を有する以上、原告が現実に自覚症状を覚知し、これを被告に指摘した時点においては、既に化学物質過敏症の発症は回避できなかった可能性もある。)。

なお、新築建物からの有害化学物質を除去する方法として、ベークアウト(室内をヒーター等で加熱し、排気を繰返す。)という方法が存在していたことが認められるが、平成五年当時においてこれが建築工事業者の間で一般的に周知されていたものであったとは認められず、右方法を採用しなかったとしても直ちに過失があったとはいえない。

三  よって、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求は理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結日 平成九年一二月三日)

(裁判官 曳野久男)

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